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當(dāng)前位置:查字典>>在線翻譯>>日語:贅沢消費(fèi)論

日語:贅沢消費(fèi)論

  要旨

  なぜ人は贅沢な消費(fèi)を行うのであろうか ? この小論ではこの問いに答えるために、どのような贅沢であれば、それが望ましいものであると考えることができるか、というあるべき消費(fèi)規(guī)準(zhǔn)についての考察を行っている。この點(diǎn)を追求するために、贅沢観念のいくつかの系譜にしたがって、その変遷を辿っている。これらのなかでもとりわけ、ジンメルの流行理論と、ヴェブレンの浪費(fèi)原理に注目している。これら二つの考え方のなかには、16世紀(jì)以來の趣味論の系譜のなかで培われてきた、趣味形成の議論が含まれていると解釈できる。これらの議論は、再帰的な過程を経て、社會的に妥當(dāng)と考えられるようになる消費(fèi)の規(guī)準(zhǔn)を明らかにしている。この小論ではこのようにして最終的に、贅沢消費(fèi)の趣味論的な理解を行うなかに、現(xiàn)代の混沌とした消費(fèi)社會のなかでの、あるべき妥當(dāng)な消費(fèi)規(guī)準(zhǔn)を見いだそうとする試みを行っている。

  Why Does Mankind Consume Luxury goods?

  -The Judgement of Taste in the Consumption Theory of Simmel and Veblen -

  Motoshi SAKAI

  Abstract

  Why does mankind consume luxury goods and services ? This paper makes an investigation into the judgement of luxury consumption. We search this matter by tracing the history of the idea of luxury, and pay a special attention to the Simmel's theory of Fashion, and the Veblen's Principle of Waste Consumption. We are based on the theory of the Judgement of Taste, and interpret these ideas of consumption. People's taste of consumption is made up through the process of “reflection," and carries social validity. We eventually have a trial of finding the judgement of luxury consumption in understanding the taste formation of luxury in this essay.

  1.贅沢の観念

  贅沢という言葉をあらわす英語は、ラグジャリー(luxury) である。この語幹のluxeという言葉は、すでに日本語のなかに定著しているデラックス(De Luxe) という言葉から推測できるように、過剰なことあるいは豊かなことという意味を持っている。つまり、贅沢ということは、ある程度以上に過剰に存在するものを表すこととして、つねに成立してきている。

  ここで人間の消費(fèi)活動について考えるときに、この贅沢の持つ過剰性という性質(zhì)には、性格がすこし異なる二つの意味が含まれていることがわかる。ひとつは、余計なものとして、本來の必要不可欠のものから、限りなく分化され、分離するような、派生の可能性を持つものである。本來の性質(zhì)に対して、「付加的 (additional)」といいかえることのできるものである。新しく生まれる変化の要素を表している。このことは、消費(fèi)活動を考える上では、必需と贅沢の対比に現(xiàn)れてきている。必要最小限の消費(fèi)が必需という形で成立するのに対して、贅沢消費(fèi)はそれを上回る支出として、付け加わる部分である、と考えられている。

  ところが、もうひとつの意味を含むものとして、贅沢の観念は成立してきている。それは、同じく余計なものであっても、そこに次第に沈殿し蓄積されていくものとして、最終的に殘されたもの、不変のものという意味である。このことは、イタリアの社會経済學(xué)者V.パレートによって「殘基(residual)」と呼ばれることになる特性である(1) 。言語學(xué)の比喩を用いるならば、あたかも派生語をたくさん持つことができる「語根」のようなものとして、この贅沢の過剰性が體現(xiàn)されるものである。贅沢という言葉には、このようにはじめの段階から、つねにこの二つの意味が対立したり、また結(jié)合したりしながら含まれてきているのである。

  この點(diǎn)で示唆的なのは、人類にとって原初的な贅沢の在り方である。たとえば、人類の家屋は収穫物の貯蔵庫から始まった、という人類學(xué)者J.E.リップスの報告はたいへん重要な意味を含んでいる(2) 。人間は、洞穴やテントのような風(fēng)雨を防ぐための最低限の家から、徐々に定住のためのがっしりとした、平地に建てられる家屋に移っていくことが知られている。このような「贅沢な」家屋は、なぜ可能になったのか、という問題がある。つまり、人間のすむ定住用の家屋というものの原型はなにか、ということである。リップスによれば、このような家屋の原型は、風(fēng)雨をしのぐための必需型の洞穴やテントの類の家屋ではなく、むしろ定住のために建てられた、いわば贅沢型の家屋タイプであるとする。というのも、このタイプの家屋は、そもそも人間を物理的に保護(hù)する目的で建てられたのではなく、彼らの糧となる?yún)Х偽铯虮4妞工毪郡幛私à皮椁欷郡椁扦ⅳ搿ⅳ戎刚筏皮い搿H碎gの肉體を守るという直接的な欲望によって、家屋という贅沢が可能になったのではなく、収穫物を蓄積することが長期的に重要であるという「贅沢な」習(xí)慣が家族のなかでしだいに認(rèn)識され、殘基となって、そののち家屋が形成されたのである。結(jié)局のところ、蓄積などによる余剰、つまりこのような豊かさの保存が可能になったとき、はじめて人間は贅沢という観念を獲得するといえる。

  贅沢消費(fèi)とは、間違いなく過剰な消費(fèi)を行うことであり、それは表面的には、人間の欲求が高度になったからであるという解釈も可能かもしれない。けれども、わたしたちが忘れがちなのは、この贅沢消費(fèi)が行われることそれ自體よりも、むしろこの可能となる條件の方である。過剰な消費(fèi)ができるためには、過剰分の原資となるものがなければならないし、またときにはそのための蓄積が存在しないと可能ではない、というきわめて単純なことが見過ごされがちである。とかく、贅沢では消盡の方に目が奪われがちになるが、むしろ注目しなければならないのは、こちらの殘余と蓄積の方である。

  2.社會的機(jī)能としての贅沢

  すこし話を戻して、はじめに贅沢の付加的な過剰という意味に注目するならば、贅沢は後で述べるように裝飾的な美的感覚のような質(zhì)的な問題であるよりは、まずは量として、圧倒的に多いことに意味があった。この點(diǎn)で贅沢の観念に明確な定義を與えたのは、十九世紀(jì)から二十世紀(jì)にかけてドイツで活躍した経済史家 W.ゾンバルトである(3) 。彼は、1912年に著した『戀愛と贅沢と資本主義』という書物のなかで、「贅沢とは、必需品を上まわるものにかける出費(fèi)のことである」と考えた。必要以上の出費(fèi)という量的な問題として定義を與えている點(diǎn)で、積極的意味を持つものであった。ここでは、贅沢という消費(fèi)の規(guī)準(zhǔn)について、質(zhì)的で絶対的な規(guī)準(zhǔn)を採用するのではなく、むしろ必需との関係で成り立つと考えるような、相対的な規(guī)準(zhǔn)を考えていることになる。

  量的な問題に限っていうならば、贅沢は必需とはあきらかに異なる性質(zhì)を示す。もし人びとの消費(fèi)活動が必需のみに限定されるならば、必要とするものには限りがあるのでいずれは飽和狀態(tài)に達(dá)してしまう。ある一定のところで、人びとの消費(fèi)は止まってしまうはずである。ところが、実際の消費(fèi)活動のなかには、贅沢消費(fèi)も相伴って含まれるために、所得水準(zhǔn)の上昇があるならば、消費(fèi)の増大には限りがないようにみえる。このような「消費(fèi)につぐ消費(fèi)」という量的な現(xiàn)実は、贅沢消費(fèi)によって、かなり増進(jìn)されるといえる。統(tǒng)計的にみても、贅沢消費(fèi)は所得の変化に敏感に反応する性質(zhì)を示している。言い換えるならば、贅沢消費(fèi)はいわゆる所得弾力性の高い性格を示すことがよく知られている。

  ゾンバルトは、贅沢消費(fèi)のモデルのひとつとして、十七世紀(jì)から十八世紀(jì)のフランス絶対王政期ルイ十四世を取り上げている。必需的な生活を送っている庶民階級に対して、贅沢消費(fèi)を行っている貴族階級の消費(fèi)を位置づけた。ルイ十四世は、この時代の最高と稱せられる建築家、造園家、畫家、家具職人たちを集め、資力のかぎりをつくして、ヴェルサイユ宮殿をはじめとする多くの宮殿を建設(shè)している。當(dāng)然のことであるが、宮殿は建築物として壯大な規(guī)模を誇っている。寢室をはじめとする部屋の數(shù)は多い。室內(nèi)裝飾でもキャビネットや簞笥などの工蕓的な家具調(diào)度品が數(shù)多く揃えられている。また、蕓術(shù)作品の収集にも、國家予算の多くが使用された。

  このルイ十四世の例では、質(zhì)的な贅沢も重要ではあるが、同時に量的な意味での贅沢に注目に値すべき點(diǎn)が多い。たとえば、馬車は一人に一臺あれば十分であるにもかかわらず十臺所有したり、一人の食欲を満足させるために十人前の料理を用意したりするような、量的な贅沢が貴族生活の消費(fèi)にはほぼ必ず含まれている。ルイ十四世の宮殿建設(shè)には、國家予算の多くがつぎ込まれたが、これらの収入の伸び以上に、さらにこれを上回って贅沢消費(fèi)に資金が回されたのである。

  問題は、なぜ今日では浪費(fèi)と考えることのできるような消費(fèi)様式が、王侯??貴族階級にだけは許されていたのか、という點(diǎn)である。ゾンバルトの答えは、贅沢消費(fèi)には市場形成を行う力が存在するからだ、ということにある。少し矛盾しているように見えるかもしれないが、貴族の行う贅沢消費(fèi)は一面では浪費(fèi)的で、非生産的ではあったが、同時に他面ではきわめて「生産的」な側(cè)面を持っていたといえる。というのも、王侯や貴族階級が大判振る舞いの贅沢な消費(fèi)を行えば、それによって庶民層の所得水準(zhǔn)が上昇し、さらに平均的な消費(fèi)支出を増加させる影響を及ぼす可能性がある。封建時代でも、今世紀(jì)の経済學(xué)者ケインズが指摘したような乗數(shù)効果が作用するからである。「ビンの秘密」と文明批評家G.バタイユによってよばれた効果がここでも働き、貴族消費(fèi)は、大蔵省によって紙幣が詰められ、砂漠に埋められたビンを掘り出しその中身をつかうことと、同じ効果を社會へ與えることになる。もちろん、こののち十八世紀(jì)の歴史上有名なジョン??ローの事件や、英國の南海バブル事件などの一連の事件を生み出す原因に、贅沢消費(fèi)がかなり関わっていたことも、評価には加える必要がある。けれども、このようにしてルイ十四世の宮殿造りは、今日の公共事業(yè)に相當(dāng)し、フランス國全體の経済を活気づけることに貢獻(xiàn)したのである。

  ゾンバルトと同様の指摘は、じつはルイ十四世の時代からその後の時代に活躍したフランスの思想家モンテスキュー『法の精神』によってもすでに行われていた (4) 。彼は、贅沢が資産の不平等に応じて比例的に生ずると考える。このため、共和政では平等が基本原理なので贅沢は禁止されるべきであるが、君主政や貴族政のもとでは、不平等を原則としており、贅沢は禁止されるべきではないと考えた。君主政のもとでは、個人の富は庶民層の生存上の必需を奪うことによって増加したのであるから、それらを庶民層に返す何らかの手段が必要となる。つまり、もし「富者たちがそこで多くを費(fèi)消しないならば、貧者たちは餓死してしまうだろう」という指摘を行っている。君主國家では、むしろ贅沢を行うことは庶民層から商人層、貴族層から君主へ向かって、しだいに増加する必要があり、もしこれを行わなければ社會全體が縮小し、すべての需要がかえって失われてしまうであろうと考えられた。歴史的にみても、ほとんどの國では、「贅沢( 奢侈) 禁止令」や「倹約令」が発布されるが、しだいに、これらの禁止令は廃止される傾向を辿ることになる。もちろん、江戸時代に見られるように、このような事情は日本にも當(dāng)てはまる。

  なぜここで贅沢が正當(dāng)なものとして評価されるようになったかといえば、贅沢が市場を形成し、需要を喚起する強(qiáng)い力を持っているからにほかならない。社會のなかで、経済的需要を維持するために、贅沢は必要だったのである。贅沢消費(fèi)が行われることによって、君主から貴族へ、商人から庶民へ向かって波及効果が広がることがなかったならば、またこのような市場形成力が行使されることがなかったならば、歴史的にみて、これほどの支持は得られなかったであろう。このように、贅沢消費(fèi)は市場を通じての分配と再分配という、量的な経済問題を含んでいる點(diǎn)で、まず認(rèn)められるようになったのである。このとき、まず最初に行われる君主や貴族の贅沢消費(fèi)は、純粋に「浪費(fèi)」であり、「無駄」な意味しか存在しないかもしれない。けれども、これらが社會に対して波及効果をもたらし、庶民階級にとって必要不可欠の量的な効果を持つに至って、はじめて贅沢の社會的意味が存在することになる。

  このように、贅沢ということが社會的に認(rèn)められるのは、まず社會の中の、貴族が行うような上流文化、高級文化(High Culture)として成立しているのを見ることができる。そして、贅沢は後で述べるように、貴族階級の威信を示すための特権的な財??サーヴィス消費(fèi)として発展していくことになる。けれども、贅沢の今日的な問題は、このような贅沢が階級制のなかに成立するのではなく、大衆(zhòng)のなかで求められているという點(diǎn)にある。とりわけ大衆(zhòng)社會での贅沢とは何か、この點(diǎn)が問われているのである。

  3.精神的欲求としての贅沢

  人間の欲求構(gòu)造のなかに、高度の欲求として存在し、必需に対してより付加的な贅沢という欲求が存在すると考える立場は、経済分野でも有効な考えとして受け入れられている。けれども、この欲求の內(nèi)容を経済學(xué)的に確定することには、たいへんな困難がある。

  「驚くべきことに、人がなぜ財を求めるか、考えてみると誰もしらない」という問題提起を、現(xiàn)代において行ったのは、獨(dú)自の観點(diǎn)から消費(fèi)論を書いた文化人類學(xué)者のメアリー??ダグラスである(5) 。通常、このことに答えるのは経済學(xué)の役割だが、現(xiàn)代の経済學(xué)は、人びとの嗜好が短期には変化しないと考えている。消費(fèi)欲求の內(nèi)容と考えられる、嗜好や趣味(taste )は所與であって、そのかぎりで価格や所得の変化が消費(fèi)者へどのような変化を及ぼすのかを、経済學(xué)は考察すると説明される。経済學(xué)は、欲望??欲求の內(nèi)部には関わることがない。経済學(xué)者は、このような欲求の形成に関する有効な理論を持たない、ということは、暗黙の了解事項である。趣味は、経済學(xué)の消費(fèi)理論での基本的な要素であるにもかかわらず、現(xiàn)代の経済學(xué)では、それは中身のわからないブラック??ボックスであると考えられている。経済學(xué)者のT.シトフスキーが指摘したように、人間は消費(fèi)の刺激に対して鋭く反応するにもかかわらず、経済學(xué)はその途中の過程については追求することはなかった(6) 。また、K.ランカスターは、消費(fèi)者が財そのものより財の持っている特性に反応する、と考える。バナナを消費(fèi)するときに、消費(fèi)者は直接的には栄養(yǎng)や味覚という特性に反応するのであって、バナナそのものの嗜好については間接的な選好を示すにすぎない、とする。このため、嗜好の內(nèi)容に複雑な順序づけが存在することはすべての人が認(rèn)めても、その順序づけを確定することまでには、経済學(xué)が深く踏み込むことがない。

  けれども、このような欲望や欲求の內(nèi)容について、所與と考えるようになったのは、比較的最近である。すこし前の経済學(xué)者は、欲求の內(nèi)容についての見解を明らかにしてきている。たとえば、『一般理論』を著したJ.M.ケインズは、「わが孫たちの経済的可能性」という論文のなかで、二つの欲求が存在することを指摘したことがある(7) 。ひとつは、他者に関係なく感じる欲求で、生理的で必需的な欲求であり、「絶対的欲求」とよばれるものである。もうひとつは、他者に優(yōu)越する欲求で、飽くことなき欲求であり、「相対的欲求」とよばれたものである。このうち、絶対的欲求は、バナナをたくさん食べれば満腹になるように、物質(zhì)的な充足がすすめば、いずれ飽和狀態(tài)になるであろう、と考えられた。けれども相対的欲求は、優(yōu)越する水準(zhǔn)が高まれば高まるほど、より欲求の度合いは高くなる性質(zhì)がある、と考えた。ケインズの考える「孫たち」の時代には、絶対的欲求についてはある程度充足させることは可能だが、相対的欲求については永遠(yuǎn)に充たされることはない、と考えた。

  この點(diǎn)で參考になるのは、心理學(xué)のA.H.マズローである(8) 。彼は、『人間性の心理學(xué)』のなかで、欲求段階を示している。ここで、経済學(xué)が容易になしえなかった、欲求の內(nèi)容と欲求を行う順序段階を提示している。そこでは、基本的な欲求であると考えられる物質(zhì)的欲求から、より高次の欲求であると考えられる精神的な欲求へ向かって、充足の順序段階を明らかにした。低次から高次へ順位をつけて、欲求が発展していくと考えられた。

  まず第一に、栄養(yǎng)摂取、睡眠などの生理的な欲求が基礎(chǔ)となる。第二に、社會の秩序家族の安定などの安全欲求。それに続いて第三に、交際や情愛などの愛情の欲求がある。さらに第四に、支配や評価などの尊敬欲求。そして第五に、潛在的な自己を現(xiàn)実のものにしたいという、これらの欲求の中でも、とりわけマズローの名前を高からしめた、自己実現(xiàn)欲求がある。このように、人間の欲求の中に、物質(zhì)的な欲求に止まらず、精神的な欲求の存在することを示し、多様な欲求の有り様を提案した點(diǎn)で、マズローの欲求分析は評価することができる。けれども、実際にはこの欲求段階の充足順位がかなりあいまいなことは、マズロー自身がすでに理解していた。欲求の定式化ということには、かなりの不確定な要素が含まれることはよく知られている。たとえば、宗教的な體験でよく語られるように、空腹だからといって、自己実現(xiàn)を絶対に図ることはないとはいえない。

  このように、マズローは欲求の內(nèi)容を五段階に分類を行ったが、その順序づけはかなり直線的な位階で統(tǒng)御されるものと考えられてた。けれども、このような欲求が現(xiàn)れる過程は、かならずしもこのような直線的なものばかりではない。間接的で、かつ再帰的な過程を含むものとして成立してきている。たとえば、消費(fèi)が行動となって現(xiàn)れるときには、購入段階の欲求と、使用段階の欲求は必ずしも同じわけではない。いくつもの欲求が複合していることが、今日の消費(fèi)の特徴となっている。じつは、このように消費(fèi)の使用や消耗過程が強(qiáng)調(diào)されるようになってきたことには、人びとの欲望??欲求観の転換があったと見ることができる。ここに、欲望??欲求がどのようにして形成されるのか、ということが問われるようになる兆候を見ることができる。もっとも、このことを異なる側(cè)面から見れば、欲求というものが贅沢消費(fèi)に及ぼす影響は、たいへん不確定なものに止まることを示している。とりわけ、社會のなかで現(xiàn)れる消費(fèi)欲求の場合に、このような社會過程の影響を受け、不確定になることが考えられる。

  つまり、贅沢のような欲求の構(gòu)造には、個人欲求のなかだけでは決定できない性質(zhì)の欲求が存在することが知られるようになってきている。この點(diǎn)で、ほぼ 200年前に生きたスコットランドのD.ヒュームはかなり常識的で、洗練された贅沢観を持っていた(9) 。同じ贅沢にも「良い」贅沢と「悪しき」贅沢とが存在し、この判定はたいへん難しい。その時代に、マンデヴィルが風(fēng)刺的に描いたように、浪費(fèi)は個人的にみると悪徳である場合でも、社會全體にとっては有益である場合もある。またその逆の場合も存在する。ヒュームの判定にしたがえば、悪しき贅沢はたしかに悪徳ではあるが、それが失われたのちにはびこる「怠惰」や「無為」よりははるかにすぐれている、とされる。欲求の程度にははっきりとした規(guī)準(zhǔn)がない以上、悪徳を一掃するために、ひとつひとつの悪徳を徳と入れ替えていくようなことはできない。もし人間にとって贅沢消費(fèi)ということを避けることができないならば、人間に可能なのは、ひとつの悪徳を除くために別の悪徳を以ってする以外にない。贅沢の節(jié)度を守ることが必要であろう。おそらく贅沢消費(fèi)の問題は、この部類に屬する問題ではないだろうか。そして、このような過程を通じて、贅沢への欲求は、何度となく社會による淘汰作用を受ける必要がある。

  4.趣味の再帰的性格

  心理學(xué)以外にも、欲求の內(nèi)容を問う學(xué)問が存在しなかったわけではない。とくに、贅沢消費(fèi)については、社會的な作用を織り込んだ欲求の構(gòu)造が探究される必要がある。もし社會理論に近いところに、この観點(diǎn)を探すとなると、それは「趣味( taste)論」である。しかし、これらは理論発展の途中で、社會理論から美學(xué)??道徳學(xué)の分野へ追いやられてしまっていた。十六世紀(jì)から十八世紀(jì)後半にかけて、趣味論はヨーロッパに形成された。けれども、十九世紀(jì)に入ると、美學(xué)理論のほうへ押し出されてしまい、社會理論への影響は薄れてしまった。ここでは、すこし迂回することになるかもしれないが、この忘れられた観點(diǎn)を喚起して、趣味についての議論を贅沢消費(fèi)の文脈のなかへ復(fù)活させてみたい。

  まず、消費(fèi)活動に近いもののなかで、食事の趣味論を取り上げてみたい。多くの消費(fèi)社會では、グルメ、グルマンと呼ばれる「贅沢な」人びとが現(xiàn)出することがある。これは、グルマンディーズ (gourmandise)、つまり食道楽あるいは美食趣味という言葉に由來する。このグルマンディーズに詳細(xì)な定義を與えたのは、1826年に『美味禮賛( 味覚の生理學(xué))』を書いたブリア-サヴァランである(10)。フランスでは、すでにフォンテーヌや百科全書派のもとで、趣味論の伝統(tǒng)があった。このグルマンディーズという美食趣味とは「暴飲暴食の敵」であって、量としての贅沢を排除して、「味覚を喜ばすものを、情熱的に理知的にまた常習(xí)的に愛する心」であると考え、質(zhì)としての贅沢を追求する立場である。食事は、大量に摂れば満足できるというものではない。また、単に栄養(yǎng)が摂れれば、良いというのではない。そこには、フランス語でグウ(gout)とよばれる味覚を満足させるような規(guī)準(zhǔn)が存在すると、サヴァランは考える。

  つまりは、美味しいと感ずるのはなぜかということである。人びとが共通に美味しいと感ずるにはなにか原因があるのだろうか、ということである。そして、この味覚を成立させる感覚に三種のものがあるとする。直接感覚、完全感覚、反省( 再帰) 感覚である。たとえばすこし具體的にいうなら、この三つの感覚は、それぞれ(1) 桃を食べて、口の中で酸味を感ずる段階、(2) 飲み込む前までに、口中のあらゆる感覚が完成する段階、そして、(3) 飲み込んでしまってから、感じたことを総合的に判斷して、「これはうまい」とつぶやく段階、があると考えられた。食事を行うという消費(fèi)活動のなかで、味覚を感じるという欲求のためだけであれば、完全感覚まであればよいことになる。けれども、ここで重要だと思われるのは、第三の反省( 再帰) 感覚であると思われる。彼は「グルマンディーズはわれわれの判斷から生まれるのであり、判斷があればこそ、われわれは特に味の良いものをそういう性質(zhì)をもたないもののなかから選びとるのである」と言う。この點(diǎn)は、ここでみた個人的感覚の問題を超えるものである。ここで人びとが示す「良き趣味」がどのようなものであるのかは、むしろ社會で形成される趣味の問題である。とくにこの點(diǎn)で「再帰」という視點(diǎn)が重要になる。ここで、趣味論は、個人心理のなかで直線的に構(gòu)成されると考えられるような欲求論とは、一線を畫すことになる。

  趣味が人びとの間で、多様に陥る傾向を指摘し、ここに再帰という作用が必要であることを説いたのは、前述の哲學(xué)者D. ヒュームである(11)。彼は、このような人びとの間には様々な感じ方があるにもかかわらず、それが調(diào)和されるような規(guī)則が成り立つと考えた。それを「基準(zhǔn)(standard)」とよんで提示しようとした。この問題は、彼が1756年頃に書いたと言われる論文「趣味の基準(zhǔn)について」のなかで指摘されている。彼は、趣味判斷のなかでも、とりわけ批判と総合的判斷の再帰プロセスを重視した。この結(jié)果、趣味の原理は「訓(xùn)練によって向上し、比較によって完全にされ、一切の偏見を払拭している強(qiáng)靱な良識」のゆえに、形成されると考えられることになる。もっとも、このことをだれが行うのかという點(diǎn)では、批評家というものがこのプロセスの行使に関して貴重な存在だとされるものの、このような基準(zhǔn)を提示できる批評家はまれであるとする。この點(diǎn)では、ヒュームの定義による趣味判斷が普遍的な価値を持つものとして成り立ちうる條件には、かなり厳しいものがある。

  前述のサヴァランは、味覚というきわめて個人的な感覚に、趣味の性質(zhì)をみた。けれども、すでにこの反省(再帰)感覚のなかに個人感覚を超えた問題のあることは、十八世紀(jì)の趣味論のなかで気づかれていた。サヴァランへ影響を及ぼしたと思われる、『判斷力批判』を書いた哲學(xué)者I.カントも、同様に趣味に二重の意味のあることを指摘している(12 。快適に関する個人的な趣味判斷であると考えられたのが、(1) 感覚的な趣味(taste of sense)である。これに対して、美に関する、普遍妥當(dāng)?shù)? 公的) な判斷であると考えられたのが、(2) 反省的(再帰的)趣味(taste of reflection) である。そしてここで、カントは趣味が、その本質(zhì)からして、私的なものに止まるものでなく、むしろ社會的な現(xiàn)象を含むものとして提示した。ある人が何かある物を「美」であると主張しようとする。このとき「この物は、私にとっては美しい」と個人的に言ったとしても、他の人達(dá)はそれを受け入れるとは限らない。彼は他者が同感するような、妥當(dāng)な「美しさ」を提示しなければならない、あるいは他者に同意を要請する必要があると考えた。このとき、彼は自分自身の趣味判斷と、他者の趣味判斷の雙方を含有しなければ、彼の主張は通ることはない。

  このような再帰性によって獲得されるような、他者を顧慮するうえで形成される判斷能力を、カントは「共通感覚(sensus communis) 」とよんだ。そして、最終的にはこの共通感覚に基づいて、趣味の定義を與えている。つまり、趣味とは、「與えられた表象に関する我々の感情にすべての人が概念を介することなく、普遍的に與かり得るところのものを判定する能力のことである」と考えた。もっとも、このような「普遍的に與り得るところのもの」という普遍妥當(dāng)?shù)膜胜猡韦稀⒈厝坏膜摔ⅳ椁铯欷毪趣いΔ铯堡韦猡韦扦悉胜ぁ¥堡欷嗓狻⑷の钉趣いΔ猡韦嗓炅ⅳ膜趣摔稀ⅳ长欷税椁盲票丐氦ⅳ椁铯欷毪韦扦ⅳ搿?/p>

  問題となるのは、なぜ當(dāng)時贅沢の判斷や、さらには消費(fèi)論や社會論のなかへ、この趣味論が浸透して行かなかったか、ということである。おそらくここで、趣味が主として観念の問題としてのみ取り扱われてきてしまったからであるといえる。W. ベイトが指摘しているように、人文分野ではその後、古典主義からロマン主義へ移行するにつれて、個人主義的で、かつ観念的に、この趣味は解釈されるようになった(13)。あとで見るように、趣味が人と物との関係の中で引き起こされているにもかかわらず、実際には趣味という考え方は、観念の世界にのみ閉じ込められ、現(xiàn)代に復(fù)活されるまでは、消費(fèi)理論の世界へはあまり適用されることがなかった。けれども、ここで見てきたような趣味論の枠組みは、すくなくとも贅沢消費(fèi)を問題にするときに、たいへん重要な視點(diǎn)を提供していると考えられる。贅沢という問題が、社會的な視點(diǎn)を必要とする、ということに目を向けさせる契機(jī)となる。

  5.贅沢の模倣過程

  趣味論での再帰過程が、もし個人的な審美眼としてのみ考えられてしまうならば、おそらく贅沢論のなかでは、この視點(diǎn)は美的贅沢の規(guī)準(zhǔn)としてのみ取り上げられることになる、という誤解を受けるかもしれない。ところが前述のように、贅沢は社會に浸透してそのなかで、社會的な淘汰作用を受けていく現(xiàn)象である。この社會的な現(xiàn)象という點(diǎn)から見るならば、贅沢のひとつの源流は、貴族趣味を模倣する過程のなかに現(xiàn)れる。とりわけ、現(xiàn)代のような大衆(zhòng)社會では、贅沢はすこし上流の階層を模倣することが、贅沢のひとつのモデルとなる。こうして大衆(zhòng)社會では、あたかも贅沢は流行現(xiàn)象のひとつとして存在する。

  まず第一に、この點(diǎn)であげなければならない、古典的な理論がある。それは、フランスの社會學(xué)者G.タルドが1890年に書いた『模倣の法則』である (14)。この本によって、社會行動のスタイルが人びとの間に普及するのは、模倣という意味があるからだという考え方が一般的になった。模倣というのは英語でイミテーション(imitation) という言葉を使う。このイミテイト、模倣するという言葉は、いわゆるイメージという言葉と同類であり、実體があって、その実體を何かのイメージとして受け取る。つまり、鏡に映した像として受け取る。これが模倣というものになる。イミテーションというのは、いわばコピーというものを作る、という考え方になる。ここでは反復(fù)し、複寫するということが模倣ということになる。社會的な行動というものは、だれかが一番最初に新しいものを作ったことは間違いない。そこでは模倣は存在しないが、そのあと追従者たちによって模倣されることで、大勢の人たちの間に普及するということになる。タルドは、このような模倣はいわば論理を超えた考え方であり、超論理的な方法によって起こるという指摘をしている。ここにひとつの論理的な飛躍があり、形作られた不変要素が殘基となって模倣過程を形成し、社會が動いていくような、模倣によるダイナミックスを描いてみせた。

  ここでタルドは、模倣過程が社會プロセスのなかで生ずるという視點(diǎn)を提示して、この模倣が人間間で見られるいくつかの関係のなかに生ずることを見ている。なかでも、とくに上下関係、つまり上層階級と下層階級との関係として、起こることに注目した。このときに、下層階級が上層階級を模倣することで、社會現(xiàn)象が連鎖的に起こっていく可能性があると考えた。たとえば、タルドがあげた例では、貴族の行なっている奢侈が徐々に平民層に浸透していくことが典型的なものである。フランスの絶対王制期には、貴族文化というものが次第に平民層に模倣されることによって、消費(fèi)活動が起こっていった。ここで、上層から下層への模倣過程は、自分の所屬する層に最も近い層を模倣することから生じた。自分の近くにいる、ほんのすこし上の人たちの模倣をすることが、連鎖的に起こることである。そのほんのすこし上の人たちは、また自分のほんのすこし上の人たちの模倣をするという形がつながって、連鎖的に上層階級の真似をするということが起ってくる。このときに、社會全體でみて集団現(xiàn)象としての模倣が起こるであろうと考えた。このような形で上流層からの流行の普及ということが、上層階級から下層階級にコピーを作る形で模倣され、同じことが反復(fù)され、そして最終的に、贅沢消費(fèi)が下層階級に伝染していくことになる。ここに、模倣という贅沢のひとつの本質(zhì)があらわれる。

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  この関係を図示すると、全體の関係は三角形のピラミッド型になっていて、その一番の上層部のところにおそらく一人か少人數(shù)かの模倣される者が位置している。つぎに、それに追従して模倣する人びとが數(shù)人続き、次第にその上層階級の模倣が下層階級に浸透していくという形態(tài)をとっている。そして、贅沢としての消費(fèi)が一般化し、大衆(zhòng)に浸透することになる。この指摘によって、タルドは模倣現(xiàn)象というものの最も基本的な理論を築いたといわれることになる。

  この古典的な模倣の考え方に対して、トリクル??ダウン理論という考え方が出てくることになる。このトリクル??ダウンというのは滴下と訳される。雫が下に向かって垂れていくのと同じように、上層階級から下層階級に文化が滴下することによって、社會行動が次第に大きな層に一般化していくと考える。しかし、このトリクル??ダウン理論のなかでも、タルドの模倣理論をそのまま受け継ぐのではなくて、それにもう一つの要素を加えたのが、ドイツの社會學(xué)者G.ジンメルである(15)。かれには、「流行」という論文がある。このなかで流行が生じる理由として、まず第一にタルドと同様、模倣過程というのは流行の要素としてはずすことができない、と考える。流行現(xiàn)象というのは上層部から下層部へ下がっていくような、階級間の現(xiàn)象であると考えた。このとき、上層部が先行者となって、徐々に多數(shù)の人びとが追隨者となって雪だるま式に膨らんでいく。流行が次第に大きな集団を形成するようになるという過程を、まずは確認(rèn)している。

  しかし、ジンメルは模倣だけで流行が生じるわけではないと考えている。ジンメルの視點(diǎn)のなかで、とくに今日の消費(fèi)現(xiàn)象を考えるうえで優(yōu)れている點(diǎn)は、流行現(xiàn)象のなかでの大衆(zhòng)化という傾向を、相対立する二つの動きによって複合的に説明していることである。大衆(zhòng)化というのは、単に下層階級が均等化して似たような傾向を身につけることだけを指すのではない、という點(diǎn)がここでは重要である。問題となるのはここで、ジンメルは流行が模倣だけではなくて、他者と異なるという、差異というものを含んでいることを強(qiáng)調(diào)する點(diǎn)である。この差異というものが存在することによって、さらに流行というものが定著するであろう、とジンメルは考えた。

  大衆(zhòng)化のもうひとつの動きのなかには、じつは模倣過程とまったく逆の過程が含まれている。それは、上層階級が新しい流行を「創(chuàng)造」し、それを下層階級に対して、「見せびらかし」する過程である。ここでは、なぜ大衆(zhòng)化には「創(chuàng)造」過程が必要なのか、とい點(diǎn)を、明確に考えておく必要があると思われる。というのも、「パンとサーカス」という言葉が殘っているように、従來大衆(zhòng)化の欠陥は創(chuàng)造過程のないところにあると考えられ、これが批判されてきたからである (16)。そもそも大衆(zhòng)化とは階級現(xiàn)象、あるいはすくなくとも二つのグループ間での現(xiàn)象である、という點(diǎn)を見すごすべきではない。もし模倣過程のみが、大衆(zhòng)化現(xiàn)象であるとすれば、二つのグループ間の差異は、文化的にはただちに消滅してしまうことになる。模倣過程だけが贅沢が普及する基礎(chǔ)にあると考えると、上層から下層にわたって模倣が行われる結(jié)果、この人數(shù)には限界があるので、模倣が最後まで行き渡った段階で模倣過程は終わってしまい、最後は消滅してしまうことになる。だから、模倣というのは飽和狀態(tài)を最終的にはもたらしてしまうものである。流行というのは、このように一回限りのものとして存在するというのが、模倣過程中心の流行理論であった。そして、大衆(zhòng)化現(xiàn)象は下層が上層に同化して、完結(jié)してしまって再び起こることはないことになる。

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  ここでジンメルは、流行理論の中で多様化が起こるメカニズムを、差異化という過程で説明し、この點(diǎn)を新たに付け加えた。かれは流行では、他者と違うということを強(qiáng)調(diào)することが、流行の本質(zhì)的な要素のひとつであると考えた。たとえば、さきほどのピラミッド型の三角形を描いて、あるひとつの流行をここでAとよんでおく。これが先行者たちによって形成され、大衆(zhòng)層に模倣されるとする。Aが出たらそのAが模倣されて、最後まで膨らんでいく。ところが、それが飽和狀態(tài)に近づくと、今度はBという流行が出てきて、そしてまた下層階級に浸透していく。ところが、浸透が進(jìn)むに連れ、今度はCという流行が出てきて、次第にそれがまた流行として浸透していく。それが飽和狀態(tài)に達(dá)すると、Dという流行がまた出てくる。この流行過程に従って、消費(fèi)の多様化ということが行われるであろう。このような質(zhì)的な意味で流行の拡大が起こるメカニズムを、ここでジンメルは差異化とよんだ。

  このように、AからBへ、BからCへ、CからDへというように、模倣が飽和するにしたがって、模倣とは異なる、差異化という新たな流行を作り出す創(chuàng)造過程が存在することになる。さもなければ、流行は一回限りで終わってしまうことになる。ところが、現(xiàn)実の世の中を見てみると、流行は継続されて、何回も反復(fù)して出てくるという性質(zhì)を見ることができる。つまり、他者と違うものをいかにして作り出すのかということが存在しなければ、模倣ということは起こらない。逆に、模倣が起こらないと、新しい差異というものを強(qiáng)調(diào)する意味もない。ジンメルにとっては、模倣過程と差異化過程というものは、相互に存在することによって、同時に流行という現(xiàn)象を説明している。模倣過程と差異化過程がサイクルを描いていて、それぞれお互いに、模倣がなければ創(chuàng)造もあり得ないし、創(chuàng)造がなければ模倣もあり得ないという形をとって、両者がそれぞれお互いが成り立つ條件になっている。これが、ジンメルの大衆(zhòng)化が起こる説明の基本的な考え方である。流行のなかで、量的拡大と質(zhì)的な多様化が同時に起こることを説明している。流行の大衆(zhòng)化過程では、模倣と差異化は分かちがたく結(jié)合されていて、両者はそれぞれ互いに対立する動きを特徴としている。しかしそれにもかかわらず、あるいはそれゆえに、両者はそれぞれが他方の成立する條件を成している。そして、この流行現(xiàn)象の説明は、贅沢の大衆(zhòng)化についても有効な説明を與えている。十九世紀(jì)になって、百貨店文化が起こり、流行をつくり出してはそれを大衆(zhòng)に広めていくという現(xiàn)象が見られた。これを観察して、小説家のE.ゾラが「贅沢の民主化」とよんだことは、かなり有名な事実として語られている。

  ジンメルの差異化と模倣という考え方は、明らかにこれまで述べてきたカントなどの趣味論の影響を受けていると解釈できる。第一に、差異化と模倣というプロセスは、趣味論の系譜に見られる二つの判斷、つまり感覚的趣味と再帰的趣味に対応していると考えることができる。もちろん、ここでは個人のなかでの認(rèn)識プロセスとして考えるカントと、社會のなかでの流行プロセスとして考えるジンメルとには違いはある。けれども、はじめに新しい認(rèn)識を察知する感覚趣味と、社會のなかで新しさを打ち出す差異化には、類比的な関係を見いだすことは可能である。また、総合的な認(rèn)識をもたらす再帰趣味と、社會のなかでの広がりを獲得する模倣過程との間にも、同型を見いだすことは難しいことではない。第二に、差異化プロセスと模倣プロセスが組み合わされることで、最終的に人びとに共通の消費(fèi)習(xí)慣が生み出されると考えられているが、このことはカントの共通感覚に通ずるものと解釈できる。第三に、趣味論を消費(fèi)理論に取り入れる最大の利點(diǎn)は、社會のなかで生ずる人間関係のダイナミックスと、消費(fèi)行動との関係を明らかにできる點(diǎn)である。この點(diǎn)で、ジンメル理論は人びとの欲求を社會過程のなかで明らかにする、という趣味論の発展する方向をうまく理論に取り入れているといえる。この第三については、むしろそれまでの趣味論の限界となっていた點(diǎn)である。ジンメルは、個人のなかの社會認(rèn)識を、明確に社會のなかの人間関係の、その関係プロセスのなかに位置づけることに成功した。趣味論の社會論的転回を図ったことで、社會理論として趣味論を成立させたと評価できる。けれども、やはりジンメルの流行理論には、贅沢消費(fèi)を考察するときに、不満な點(diǎn)が殘ってしまうことは否めない。それは、贅沢消費(fèi)の最終的な評価??判斷がいかにして行われるのか、ということが明確ではない、という點(diǎn)である。ジンメルは、模倣が現(xiàn)実の形態(tài)としては存在することは指摘しているが、それがなぜ妥當(dāng)なものであるといえるかについては示していない。この論點(diǎn)については、つぎに見るヴェブレンの議論を俟たねばならない。

  6.浪費(fèi)としての贅沢の観念

  先に述べたように、贅沢は市場形成力を持つために「生産的」であるという考え方もあるが、それとはまったく逆に、贅沢はまぎれもなく浪費(fèi)(waste)であるという考え方も根強(qiáng)く存在する。ここで浪費(fèi)とは、無駄遣いのことであり、役に立たないもの、必要でないものへの出費(fèi)のことである。浪費(fèi)によって、非生産的な消費(fèi)が行われると考えるものである。経済學(xué)のなかでは、この浪費(fèi)という観念が否定的に考えられる場合と、肯定的に考えられる場合とがある。

  浪費(fèi)を否定的に考える立場は、M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかに典型的に見ることができる(17)。彼は、禁欲という生活態(tài)度のなかに資本主義の萌芽を見ている。たとえば、米國獨(dú)立時の思想家B.フランクリンの態(tài)度のなかに、勤労と節(jié)約を心掛け、非生産的な浪費(fèi)を排斥すべきだとする道徳観を見出している。このような禁欲主義の伝統(tǒng)は、今日ではかならずしもプロテスタンティズムのような宗教と結(jié)びついて論じられるわけではない。贅沢消費(fèi)の結(jié)果、ゴミ問題などの廃棄物処理の問題が限度を超えると、このような明らかな浪費(fèi)に対しては、批判が集中することになる。よく使われる比喩を使うなら、ろうそくに火をつけるために、一本のマッチで済むところ、十本のマッチを使うならば、これは過度の浪費(fèi)であると言える。

  これに対して、むしろ浪費(fèi)のなかにこそ積極的な意味を見出す立場も存在する(18)。浪費(fèi)のなかに、過剰分の贈與、あるいは蕩盡という意味を見たのは、 M.モースの『贈與論』の考え方を受け継いだ、G.バタイユの『呪われた部分』である(19)。バタイユが積極的な浪費(fèi)の典型例のひとつとしてあげたのは、北西部アメリカ原住民に伝わるポトラッチ(potlatch)とよばれている風(fēng)習(xí)である。ポトラッチでは、もっとも富裕で実力のある部族の首長から、そのライバルと目される首長への富の贈與という形式がとられる。このとき、贈與の気前よさを見せつけるために、実力者や人びとの前で莫大な富を破壊したり蕩盡したりすることが行われた。たとえば、村落を無目的に焼き払ったり、何隻ものカヌーを粉砕したり、さらに紋章付きの高価な銅塊を、海中に投じたり打ち砕いたりしたことが報告されている。このような贈與や蕩盡が、孤獨(dú)のうちに行われるのではなく、人前で行われるという點(diǎn)が重要である。首長は大事なものを失うという事実によって、じつはより重要な何ものかを獲得するという、積極的な意味がここにはある。このようにして、それまで蓄積してきた富の贈與や消盡は、これによってその実力者が自分が他者より上位者であるという、威信を手に入れることを意味していた。このような、いわゆる特権財や威信財として、贅沢の意味を解釈するのならば、威信特有の効用が存在することで、効用理論の枠內(nèi)に納まってしまうことになる。けれども、この観點(diǎn)を超える考え方が、贅沢論の系譜には存在する。

  もし浪費(fèi)の積極的な評価を行っている議論のなかで、現(xiàn)代に通ずるもっとも含蓄ある體系を展開した理論をあげるならば、それは1899年にT.ヴェブレンが著した『有閑階級の理論』である(20)。彼は、人間の性格のなかには、役に立つものを好み、無駄を軽蔑する「ワークマンシップ本能」を原理とする態(tài)度と、役に立たない、無用のものを好み、浪費(fèi)に積極的な意味を見出すという「衒示的浪費(fèi)(conspicuous waste) 」を原理とする態(tài)度が存在する、と考える。ヴェブレンは、後者の衒示的浪費(fèi)の原理に積極的な意味を付與するような、有閑階級(Leisure Class) という貴族階級を仮構(gòu)している。

  ここで問題なのは、なぜ人は必要以上の出費(fèi)、つまり浪費(fèi)を行うかについての、ヴェブレンの説明である。彼は、贅沢な浪費(fèi)を行う動機(jī)を、物的な欲求や財そのものの物理的特性だけでなく、物的な財を超越したところにも求めている。浪費(fèi)を行うのは、物的な財やサーヴィスそれ自體であるにもかかわらず、財そのものの消費(fèi)にはあまり積極的な意味を與えていない。ここで浪費(fèi)を行う、その根底にある動機(jī)は、金銭的な張り合い、あるいは見栄(emulation) であると考える。エミュレーションというのは、他者に優(yōu)越したいという欲求である。名譽(yù)??名聲を求め、上下の差別を明確にする(invidious) 心性に、浪費(fèi)を行う理由を見出している。浪費(fèi)を行うことは、ここでは人びとの格付けや等級付けを行うことであり、このことによって、他者との関係を表示していることになる。

  このように、ヴェブレンの考えた有閑階級は、名譽(yù)や名聲を重んじる上層階級であるために、他者より優(yōu)越することのみを目的として消費(fèi)を行うところに特徴がある。けっして物質(zhì)的な実益を求めるためだけに消費(fèi)を行うのではないと考えられた。たとえば、この有閑階級が購入する衣服は、裝飾的で高価なものが選ばれるが、これは美しいから選ばれるというよりも、むしろ富裕であることを誇示したいから選ばれるのである。また、有閑階級が身につける衣服は、身の自由を奪うような、動きにくい、非機(jī)能的なものが選ばれる場合が多いが、このような非実用的な衣服は労働を行うには不向きであるため、かえって自らが勤労せずとも暮らせることを誇示するにはもっとも適していることになる。さらに、有閑階級にとっては消費(fèi)は自らの欲望のためではないという點(diǎn)でも特徴ある消費(fèi)習(xí)慣を持っているといえる。つまり、自分にとって役に立たない無用なものに浪費(fèi)することのほうが、自らの欲望を満足させるような実用的な消費(fèi)より富裕でかつ地位の高いことを誇示できることになる。というのも、このことによって経済的に余裕のあることを衒示することができるからである。ヴェブレンは、有閑階級のこのような差異性を表示する消費(fèi)習(xí)慣を「見せびらかしの消費(fèi)(conspicuous consumption)」あるいは「衒示的消費(fèi)」とよんだ。

  同じようにして、ヴェブレンは有閑階級の余暇のあり方を「見せびらかしの余暇(conspicuous leisure) 」とよんで注目した。彼は、余暇という贅沢には、より上位にある階級の富や実力を表示する意味がある、と考えた。余暇という習(xí)慣が、どのようにして人々のあいだに定著するのか。かつて、北歐のバイキングが富の所有を競って、この最高実力者としての名譽(yù)や名聲を得たものが上位者の地位を獲得したと同様に、この有閑階級では「労働免除(industrial exemption)」や非生産的な時間浪費(fèi)の程度を競爭(emulate)して、より上位者であることを衒示する思考習(xí)慣が生成したと考えた。

  たとえば、つぎのものはヴェブレンがあげている有閑階級の示す労働免除ということのたいへん有名な例である。自分の手ではけっして食事をとってはいけないために、餓死してしまった「ポリネシアの首長」、王座を自分で動かすことをしてはいけないために、暖爐の前に座りつづけて火傷をおった「フランス國王」という例をあげている。このように、現(xiàn)在ではかなり浮世離れしていると思われる例でも、そこに労働免除という慣習(xí)が定著している有閑階級では、いかに切実な制度として、この余暇の「見せびらかし」が働いていたかを思い起こすことができる。つまり、ここでは余暇を過ごし、暇があるということをみせつけることは、現(xiàn)在の大衆(zhòng)余暇とはちがって、有閑階級が他の下位階級と異なることを誇示するためのいわば、「高級文化」として制度化されていたものであるといえる。富や実力をより一層多く蓄えるのではなく、むしろ非生産的、非物質(zhì)的な活動を行って、財や時間の浪費(fèi)を示すことが社會的な意味を持つことになる。ここにはじめて、「労働免除」ということが非生産的であるにもかかわらず、積極的な余暇の制度として公認(rèn)されることになる。なぜ労働を行わないということが正當(dāng)化されるのか、という余暇の契機(jī)にひとつの答えが與えられたことになるのである。余暇という人々の生活習(xí)慣は、有閑階級が差異ということを作りだすために、まずは高級文化へ向かう傾向として、創(chuàng)造されたと見ることができる。

  さらに、ヴェブレンの考え方のもう一つの重要な部分であると思われるのは、いわゆる代行的消費(fèi)(vicarious consumption) というものである。有閑階級にとっては、自らが支出する消費(fèi)活動やレジャー活動さえ、自分で行われるべき活動とはみなされないのである。他の家族員、あるいは使用人が浪費(fèi)的な消費(fèi)行動を代行し、その結(jié)果、代行という消費(fèi)形態(tài)がさらに名聲??名譽(yù)をより高めることになるとしたのである。ヴェブレンは、衒示的浪費(fèi)の原理が代行的消費(fèi)によって強(qiáng)化されることを説明している。この視點(diǎn)を?qū)毪工毪长趣恰⑿f示的浪費(fèi)の現(xiàn)象を幅広くとらえることが可能になっている。ここで、衒示的浪費(fèi)の代行者とは、消費(fèi)によって優(yōu)越する有閑階級( 上位) と、優(yōu)越される労働者階級( 下位) の中間に位置する、媒介者の意味がある。つまり、上位者には模倣によって従うが、下位者には差異を示すことで優(yōu)越することになる。今日の消費(fèi)社會を考える場合には、むしろこのような代行的消費(fèi)の方が示唆に富む場合が多い。

  ここまでのヴェブレン解釈は、ほぼ従來どおりの考え方をそのまま踏襲している。けれども、ヴェブレンの「見せびらかしの消費(fèi)」については、趣味論の系譜にしたがって、新たな解釈が可能である。次節(jié)で、この趣味論に沿った再解釈を試みたい。

  7 .ヴェブレン的消費(fèi)の趣味論的解釈

  ヴェブレンの「見せびらかしの消費(fèi)」は、4 節(jié)で辿ってきた趣味論の系譜に沿って構(gòu)成されている、と解釈できる。ヴェブレンは、この著書『有閑階級の理論』の第六章で「趣味の金銭的な規(guī)準(zhǔn)」という章を、特別に設(shè)けて趣味とは何か、趣味は消費(fèi)にどのような影響を及ぼすか、について詳細(xì)な考察を行っている。ヴェブレンは研究生活をカント研究から始めている。おそらく、この趣味をとりあげているところに、影響のあとを見ることができる。

  それでは、ヴェブレンの定義する「趣味」は、どのようなものであろうか。彼は、趣味を、「消費(fèi)を規(guī)制(regulate)する規(guī)準(zhǔn)」と考えている。消費(fèi)者は、物質(zhì)的な消費(fèi)によって「創(chuàng)造的な」趣味を発展させるが、それはエミュレーションという競爭過程によって社會的に淘汰されるような、「規(guī)制的な」趣味によってチェックされる。この枠組みは、趣味論の枠組みに合致していると解釈できる。ここで、新しさを創(chuàng)造する過程を「創(chuàng)造の原理」とヴェブレンはよんでいるが、あきらかに趣味論でいう「感覚趣味」を類推させるものである。また、ここで社會的淘汰の過程が存在し、それを「規(guī)制の原理」とよんでいるが、これは「再帰趣味」の読み替えであることは容易に想像できる。

  この結(jié)果、消費(fèi)を行うときに、人びとは暗黙のうちに公認(rèn)された規(guī)則の體系(a code of accredited canons)に従うことになる。このように、消費(fèi)の規(guī)則の體系は、ひとつの単純な原理でできているのではなく、有機(jī)的に結(jié)びついた複合的な思考習(xí)慣によって成り立っている。そして、消費(fèi)する人びとはこのような共通の規(guī)則體系にもとづく「趣味」を持つに至ると考えられることになる。このような趣味は、消費(fèi)者のなかにある暗黙の慣習(xí)的なルールのようなものである。けれども、この趣味は決して個人的なものでもないし、単なる物質(zhì)的なものでもない。また、単なる個人の精神的なものでもないとする。したがってたとえば、消費(fèi)者はすでに確立された慣例に従ったり、好ましくない評判のものを避けたり、良識や習(xí)俗にそむかないことを規(guī)準(zhǔn)にしたりする。このような柔軟なルールに従うことで、実際の消費(fèi)を?qū)g現(xiàn)することを目指している。消費(fèi)者は、このような「趣味」という消費(fèi)についての暗黙のルールを形成し、そのルールに従って消費(fèi)活動を行っている。

  ここでヴェブレンは、このような衒示的浪費(fèi)の原理が継続して働くならば、それはひとつの制度、あるいはヴェブレンの言葉を使うならば、思考習(xí)慣として成立していると考えている。一見すると、浪費(fèi)行為というのは、人びとの個人的な欲望のおもむくままに行われているから、社會にとって無駄と考えられるような現(xiàn)象が生ずると考えられがちである。けれども、ここで見てきた衒示的浪費(fèi)に典型的に見られるように、ここにも制度のルールが存在しており、このルールに則って浪費(fèi)が行われていることが明らかにされている。浪費(fèi)という、社會的に見てかなり逸脫した行為だと考えられているところでも、人間は「ルールに従う動物」であるという人間の本性を見出した點(diǎn)で、ヴェブレンの考え方は評価される。

  ヴェブレンの消費(fèi)観をもし欲望論の延長線で捉えるならば、それはひとりの人の欲望は他者の欲望の影響を受ける、という効用理論の単なる拡張でしかないといえよう。この點(diǎn)は、フランスの経済學(xué)者マランボーによっても、かつて主張された點(diǎn)である。スノッブ効果、バンドワゴン効果、あるいは直接的にヴェブレン効果とよばれてきたことで、説明が終わってしまうことになる。消費(fèi)者は、ひとつの商品が機(jī)能的で有用であるから購入する場合もあるし、その商品が機(jī)能的でなく、無用の場合でも購入するときもある。けれども、購入するとき、「なにが適當(dāng)であるかについて、誰から何も教えられない」ような狀況で、人びとは趣味という規(guī)準(zhǔn)を、ようやく採用すると考える。

  このようにして、趣味の規(guī)準(zhǔn)は人びとの消費(fèi)活動に影響を及ぼす。このとき、ヴェブレンが繰り返して強(qiáng)調(diào)するのは、この規(guī)準(zhǔn)が「創(chuàng)造的な原理 (creative principle)」として働くのではなく、むしろ「規(guī)制的な原理(regulative principle)」として働く點(diǎn)である。この規(guī)準(zhǔn)にしたがったとしても、消費(fèi)の新しい欲望がつくり出されるわけでもないし、また、新たな流行や消費(fèi)慣習(xí)が創(chuàng)造されるわけではない。つまり、このヴェブレンの規(guī)準(zhǔn)は積極的な(positive)原理であるというよりは、むしろ消極的な(negative) 原理として働いている。ここで消極的という意味は、趣味という規(guī)準(zhǔn)が消費(fèi)活動を淘汰的にしか判斷しないということである。趣味は、新しい消費(fèi)を直接生み出すことはしない。この規(guī)準(zhǔn)に適合することが消費(fèi)活動として生き殘る、必要條件となる。この規(guī)準(zhǔn)に合致することで、人びとの趣味による選択結(jié)果を受け入れることになる。ここで、ある消費(fèi)活動が適切なものかどうか、妥當(dāng)な活動なのか否かは、この規(guī)準(zhǔn)に適合しているか否かに依存している、と考えられている。この立場は、明らかにヴェブレンが趣味論のなかに、社會進(jìn)化論を持ち込むことで、最終的な贅沢消費(fèi)の評価を行おうとしていることを示している。このヴェブレンの衒示的浪費(fèi)規(guī)準(zhǔn)は、贅沢消費(fèi)が殘基となって形成されるが、その過程でこの規(guī)準(zhǔn)に合致しない消費(fèi)活動が淘汰され規(guī)制されていく、社會進(jìn)化のプロセスが進(jìn)行すると考えられていることになる。人びとの示す消費(fèi)の思考習(xí)慣は、創(chuàng)造の原理にしたがって発展するが、規(guī)制の原理にしたがって、社會的に定著するというサイクルを描いて、ひとつの完結(jié)性を保つと考えられる。

  このようなプロセスの結(jié)果からわかるように、贅沢消費(fèi)のなかでも、このような規(guī)制原理を胎化していないものと、規(guī)制原理を胎化しているものとがそんざいすることに、私たちは注意しなければならない。規(guī)制原理を持たない贅沢消費(fèi)は、人びとの欲望を増長させ、過度の膨張を繰り返す結(jié)果、最終的には崩壊する可能性が高い。これに対して、規(guī)制原理を付帯する贅沢消費(fèi)は、欲望の過度の増大を抑制することができるため、進(jìn)化論的に考えて生き殘ることになるであろう。

  8.「見せびらかし消費(fèi)」のなかの二重の意味

  消費(fèi)社會とは消費(fèi)を通じて人びとが結(jié)びつく社會である。財??サーヴィスを購入し、使用し盡くすことのなかで、人びとが結(jié)びつく社會というものが構(gòu)成される。消費(fèi)社會とは、「人と物との関係」が前景に出て、「人と人との関係」がその背景で同時に形成されるような社會である。

  この點(diǎn)で、これまで何度となく引用してきたヴェブレンの「見せびらかしの消費(fèi)」という言葉には、この両方の意味が同時に含まれており、このことでもこの論文全體を考える上でも、象徴的な言葉となっている。けれども、もしこのような「見せびらかしの消費(fèi)」行為をみて、単にこの行為を日常生活で見られるような、人びとの「見栄」を張るためだけの行為であると解釈するならば、このような説明はいわばお笑い種でしかない。有閑階級でなくとも、今日の消費(fèi)者も、見栄のために「高級服」を購入することはある。このように高級服の使用目的が、見栄を張るためだけならば、このような行為はせいぜい風(fēng)刺の対象になるぐらいであろう。「成り金趣味」や「悪趣味」の一種だと片づけられるにすぎない。これは、「見栄」という消費(fèi)サーヴィスが単に目に見えないサーヴィスであるというだけで、実質(zhì)的にはこれは従來の物質(zhì)的な消費(fèi)とあまり変わりない。これは、むしろヴェブレンの言う「創(chuàng)造の原理」に則って生み出されるような、新たな欲望でしかない。

  しかしながら、この「見せびらかしの消費(fèi)」が意味を持つのは、ここに二重の意味が込められているからである。この行為も消費(fèi)行為であるからには、物質(zhì)的な財を消費(fèi)することにひとつの意味がある。けれども、それと同時にこの消費(fèi)行為は人間関係を表示するという意味も含んでいる。ここで、物質(zhì)的消費(fèi)が行われ、「人と物との関係」があらわれると同時に、社會競爭という「人と人の関係」がその消費(fèi)のなかには反映されている。そしてこの場合に真に重要なのは、この「人と人との関係」がしばしば「人と物との関係」の基礎(chǔ)的な條件を形成し、それを基本的なところで規(guī)定する場合がある、ということである。つまり、ヴェブレンの消費(fèi)理論は、経済學(xué)の効用理論の系譜に止まるものではなく、あきらかにこれまで説明してきた趣味論の系譜に屬する消費(fèi)理論という性格を持っているのである。このことを端的に示していると思われるのは、「見せびらかしの消費(fèi)」の過程が、つぎのような二重の意味を含んでいるという點(diǎn)である。

  まず、第一の意味は、個人の効用を満足させる、物質(zhì)的な財の消費(fèi)というものである。ヴェブレンは効用理論を批判しているが、彼自身この物質(zhì)的な欲求の視點(diǎn)をけっして軽視している訳でなく、消費(fèi)の目的の第一のものとして位置づけている。このような個人生活の充実を目的とした、物質(zhì)的な目的を「衒示的浪費(fèi)の法則」のなかに含めている。物の消費(fèi)がなければ、「見せびらかしの消費(fèi)」も成り立たない。しばしば、ヴェブレンの消費(fèi)理論を強(qiáng)調(diào)するあまりに、理論家のなかには「見栄」という精神的な欲求充足のみに、ヴェブレン理論を適用してしまう誤った見解が目立つ。これは、ヴェブレン理論が趣味論の系譜のうえに成り立っていることを忘れてしまった、誤った解釈と言えるだろう。趣味論の系譜にしたがえば、個人的感覚によって発展した「新しさ」を追求する原理も人びとの効用を拡大する點(diǎn)で、重要な目的として位置づけられる。もしこの目的を除いてしまうならば、次の第二目的の存在意義もかえって失われてしまうことになる。したがって、ヴェブレンのいう消費(fèi)の意味のなかで、「新しい傾向をつくり出し、消費(fèi)の新しい項目や、支出の新しい要素を付け加えるような創(chuàng)造的原理」という要素が、消費(fèi)活動のなかで行われていることは、まず確認(rèn)して置かねばならない。ここで、消費(fèi)は「新しさ」ということを創(chuàng)造する可能性のプロセスという面を持っている。

  けれども、ヴェブレンが強(qiáng)調(diào)しているのは、まぎれもなく、「見せびらかしの消費(fèi)」の第二の目的の方である。ヴェブレンは、消費(fèi)を行って物質(zhì)を消耗させることと同時に、消費(fèi)は二次的な役割を持つと考える。彼の文章のなかに、これを見てみたい。消費(fèi)を行って「見栄を張ろうとする人間の性癖は、差別的な比較の手段としての財貨の消費(fèi)をもとらえそれによって消費(fèi)財に相対的支払能力の証拠としての第二次的な効用をあたえた。このような消費(fèi)財の間接的、第二次的な効用は、消費(fèi)に対して、名譽(yù)の性格をあたえ、またやがて、このような見栄のための消費(fèi)の目的に、もっともよく役立つ財貨に対しても、同じような性格をあたえる。金のかかった財貨の消費(fèi)が、価値があるのであり、その表面の機(jī)械的目的のための実用性をその財貨にあたえることに役立つ費(fèi)用を超過するほどの多くの費(fèi)用要素をふくむ財貨が名譽(yù)ある財貨なのである。」ここで、指摘されている「第二次的な、間接の効用」とよばれていることが、ヴェブレン消費(fèi)論の第二の意味を形成している。見せびらかしの消費(fèi)は、他者との相互作用によって生成されることにここでは注目すべきであろう。

  ヴェブレンを今日の世界に復(fù)活させる意義は、どこにあるのだろうか。それは、ポストモダニズムがかつて犯したような、直線的な近代の論理を単に批判するだけのところにあるのではない。近代世界が次第に斷片化し、バラバラになっていく姿を強(qiáng)調(diào)しようとするところにあるのでもない。そうしてまた、小さな変化しか生まなくなっていく世界を描こうとしたのでもない。ヴェブレンが強(qiáng)調(diào)しようとしたのは、これらの消費(fèi)のルール化がいかに行われるか、という消費(fèi)原理の提示である。このような消費(fèi)の背後に潛んで、目に見えない制度の存在を、かれは指摘したかったのである。消費(fèi)は、このようにその現(xiàn)象がたとえ個人的なものであったとしても、その背景にあるルールや習(xí)慣や考え方などが、社會的な過程を経て形成されてきたものである、という性格を持っている。

  人びとの社會文化的な関係が前提となって、市場での消費(fèi)活動が有効なものとなる。人と人の間に形成される制度が成立して、はじめて財の生産や消費(fèi)が可能になるといえる。ここで、消費(fèi)のために制度や習(xí)慣が形成されるのは、それは消費(fèi)の望ましい規(guī)準(zhǔn)が実現(xiàn)されるために設(shè)立されるのである。実際、わたしたちは消費(fèi)社會のなかで趣味形成を行い、消費(fèi)制度の淘汰を通じて、消費(fèi)の社會文化的基礎(chǔ)を築きつつあるのである。このように見てくると、消費(fèi)社會のなかではあらためて消費(fèi)という行為の、社會的な性格を確認(rèn)することができる。M. ダグラスが言うように、財は消費(fèi)者集団の合意によって価値を與えられる、という狀況が、消費(fèi)社會の根底にある。このことは、ジンメルが『貨幣の哲學(xué)』で指摘しているように、貨幣が次第にその取引の範(fàn)囲を広げ、市場圏を拡大していくような、いわば距離化作用を拡大するために、その基礎(chǔ)に貨幣の及ぼす信頼圏を確立する必要があるということと同じである。ここでは、消費(fèi)社會があまりに広く大きくなり、不確実な狀況を増大させているから、かえってそこに消費(fèi)を成り立たせるための、信頼性を保つための消費(fèi)制度を形成させている、という二重の動きを見ることができる。

  9.贅沢問題とはなにか

  なぜ人は贅沢な消費(fèi)を行うのであろうか。ふつう、このような問いを発するときには、贅沢は悪徳である、と主張するために使われる場合が多い。けれども、この問いが行われる背景をすこし考えてみると、わたしたちは暗黙のうちに、ここにひとつの事実を前提においていることに気づく。贅沢というのは、たとえ悪徳という認(rèn)識があったときでも、いつの時代にも消滅することがなく、むしろそれ相當(dāng)の存在理由を認(rèn)めてきた現(xiàn)実が存在するという事実である。歴史的に見て、かなり貧しいと考えられた時代にも、贅沢にかける消費(fèi)支出は、ほぼ普遍的に見ることができる。

  このような現(xiàn)実を認(rèn)めるならば、贅沢消費(fèi)はわたしたちが「望ましい」あるいは「望ましくない」と考える消費(fèi)規(guī)準(zhǔn)のひとつを表してきているといえる。もっとも、この規(guī)準(zhǔn)はいつの時代でも、すべての人がつねに望ましいと考えるわけではないから、きわめて規(guī)範(fàn)的な問題を提起してきているといえる。贅沢の反意語である「必需」という消費(fèi)規(guī)準(zhǔn)は、歴史的に見ても、現(xiàn)実を見ても、贅沢と比べればかなり客観的で確実性のある規(guī)準(zhǔn)であると考えられてきたのに対して、この贅沢についてはかなり規(guī)範(fàn)的で相対的な規(guī)準(zhǔn)として成立してきているのを見ることができる。したがって、贅沢というきわめて規(guī)範(fàn)的な観念を扱う場合には、ひとつの大きな問題を背負(fù)うことになる。それは、わたしたちがどのようにして贅沢消費(fèi)に「望ましい」あるいは「望ましくない」という、正當(dāng)なあるいは正當(dāng)でない理由を與えることができるのか、という問題である。贅沢の正當(dāng)性を判斷するために、その枠組みを探求することが、少なくともここで求められなければならないことである。このために、今日賛沢問題について議論することはたいへん重要なことになってきているのではないだろうか。その昔のように、賛沢がほんの一握りの上流階級のものであったときには、権力をめぐる政治的な問題ではあったが、量としての経済問題としてはあまり問題ではなかったであろう。けれども、今日の消費(fèi)社會では、このような賛沢消費(fèi)が大衆(zhòng)化されている現(xiàn)実がある。前述したE.ゾラの「民主化された贅沢」が広まって、すでに一世紀(jì)が過ぎているのである。このような社會狀況の中で、もしすべての消費(fèi)者が贅沢を無限に求めるならば、ただちに今日の消費(fèi)社會は単なる浪費(fèi)社會となって崩壊することは明らかである。けれども同時に、このように大衆(zhòng)に行き渡った賛沢をすべて止めてしまいなさい、という極端な意見にも、あまり正當(dāng)な根拠は存在しない。ここではむしろ、完全な禁欲は唯一の特権的な賛沢になってしまったのかもしれない。このような大衆(zhòng)消費(fèi)社會狀況のなかで、なお多くの消費(fèi)者が賛沢消費(fèi)を行うとするならば、どのような規(guī)準(zhǔn)とルールが必要とされるのか。そして、そのような賛沢消費(fèi)はどのようにして定著するのか、ということが、問題となる。このような規(guī)準(zhǔn)には、おそらく絶対的なものは存在しないであろう。消費(fèi)が環(huán)境問題に及ぼした例でもわかるように、社會のなかで繰り返し、様々な規(guī)準(zhǔn)を適用し、それらを試行錯誤によって淘汰することが重要になるであろう。

  この試論では、このような贅沢消費(fèi)を評価する有力な枠組みとして、趣味論の系譜を追ってきた。この趣味論の系譜のなかでも、とくにジンメルの流行論と、ヴェブレンの衒示的浪費(fèi)の原理に注目してきた。これらはともに、趣味論のなかの再帰過程を経て、社會にとって共通の趣味形成を追究している點(diǎn)で、共通點(diǎn)を持っている。このようにして、結(jié)局のところ、現(xiàn)代において求められているのは、どのような贅沢が望ましいものと考えることができるかという、趣味判斷の規(guī)準(zhǔn)である。贅沢消費(fèi)が、単なる浪費(fèi)(waste) に終わるのか、それとも最終的に社會での趣味( taste)という規(guī)準(zhǔn)に結(jié)実するか、それが問題である。この小論の冒頭で注意を喚起しておいたように、贅沢消費(fèi)が単なる「付加的な」ものに終わるのか、それとも長きにわたって殘された結(jié)果「殘基」を形成するに至るか、このことが問われている。贅沢消費(fèi)のなかに見ることのできる、このような価値判斷を含む趣味形成の重要性を、この小論では考えてきた。

  注記および參考文獻(xiàn)

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  (20)T.ヴェブレン『有閑階級の理論』小原訳 巖波文庫 1961

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